岩波文庫でマルティン・ブーバーの『我と汝・対話』を買ったので、25年ぶりくらいに読んでいるところ。
たぶん大学か大学院のころに「パンキョー」的にぱらぱらめくって「ふーん」と思ったくらいだったと記憶している。
今、読んでみるととても面白くて、ところどころどきどきするので、気になったところを覚書として記しておきます。
世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。
人間の態度は人間が語る根源語の二重性にもとづいて、二つとなる。根源語とは、単独語ではなく、対応語である。
根源語の一つは、〈われ‐なんじ〉の対応語である。
他の根源語は、〈われ‐それ〉の対応語である。
マルティン・ブーバー『我と汝・対話』,7項
・〈われ〉はそれ自体では存在しない。
・人間の生は、目的語をとる他動詞の領域だけでは成り立っていない。「わたしはなにかを知覚する」「わたしはなにかを意志する」といったことは、すべてみな〈それ〉の世界に根ざす。
・〈なんじ〉は対象ではない。〈なんじ〉を語る人は関係のなかに生きる。
・わたしが経験するのは〈あるもの〉にすぎない。〈それ〉の世界のもの。
・経験にとどまっている間は人間は世界に関与しない。経験は〈人間の中〉に生ずることであって、彼と世界の間に生ずるのではない。
・世界は経験に関与しない。
・経験される対象の世界は、根源語〈われ‐それ〉に属している。根源語〈われ‐なんじ〉は関係の世界を成り立たせている。
・関係の世界をつくっている三つの領域
・第一は自然と交わる生活。
・第二は人間と人間の交わる生活。
・第三は精神的存在と交わる生活。
・一本の樹木を見つめる。絵として、運動として見る。種類に分けて観察することもできる。数や純粋な数式として見ることも。しかしこれらの場合、樹木はわたしの対象。
しかし、もしみずからの意思と他からの恵みによって、この樹木を見つめているとき、わたしが、樹木との関係の中にひき入れられるということも起こり得る。この場合、樹木はもはや〈それ〉ではない。独占の力がわたしをとらえたのである。
マルティン・ブーバー『我と汝・対話』,13項
・訳注によると「独占」(排他性、唯一性)とは、この場合、樹木とわたしの間に、そのほかの関係を排除して、〈われ‐なんじ〉の関係が純粋に生ずること。
メロディーは音から成り立っているのではなく、詩は単語から成り立っているのではなく、彫刻は線から成り立っているのではない。これらを引きちぎり、ばらばらに裂くならば、統一は多様性に分解されてしまうにちがいない。このことは、わたしが〈なんじ〉と呼ぶひとの場合にもあてはまる。わたしはそのひとの髪の色とか、話し方、人柄などをとり出すことができるし、つねにそうせざるを得ない。しかし、そのひとはもはや〈なんじ〉ではなくなってしまう。
マルティン・ブーバー『我と汝・対話』,15項
ゲシュタルトとしての他者について述べている?
コメント